今回は特別企画「中国文学哲学としての易経三百八十四爻」です。占いではない哲学としての「易経」のお話です。カテゴリーは「易経三百八十四爻」になります。
今回は「雷澤歸妹(らいたくきまい)」五爻です。
卦辞は「征凶 无攸利」ゆけばきょう よろしきところなし。
お、ダメな感じじゃん。
「ゆけば凶」ですからね、慌てて行ってはいけません、この卦は「殷」と「周」という国の政略結婚を指しているとも言われます。「歸妹(きまい)」は簡単に言うと結婚を指しますが、「女性が帰るべきところに帰る」と言うことですから、他所で育てられた女性が本来の場所で娘になる、というようなイメージです。
なるほど。そういう考え方があるんだ。
主である「殷」の王様「帝乙」が、「周」の国に自分の妹を嫁がせます。それは争いを回避するためですが、結局「帝乙」の次の「紂王」の代で「殷」は「周」に滅ぼされてしまいました。
結局、滅びたとも言えるし、延命出来たとも言えるね。
もう一つは「周」に妹の血、要するに「殷」の血を残したとも言えますね。
なるほど、簡単じゃないね。どうして自分から行っちゃいけないの?
タイミングがあります、何しろ一見結果は破滅的ですからね。
相手もあることだし、コントロールできない要素もあるから自然な流れを受け入れるイメージかな。
静かな「沢(兌)」に突然の「雷(震)」が落ちるのを待つわけです。そして、簡単ではないからこそ卦辞に「凶」とあるわけです。ただ「風山漸」で進んできた次が「雷澤歸妹」なのは、進んだ後に帰るべきところに帰る、という意味があります。
それは精神的な「無意識の根源」自分の原点に自然に帰る、という意もあります。そして「妹」は「本妻」ではないので「支える」というイメージ、後ろからついていくイメージがあります。
「五爻」は「帝乙歸妹 其君之袂不如其娣之袂良 月幾望 吉」ていおつまいをとつがしむ そのきみのべいはそのていのべいによきにしかず つきぼうにちかし きち。
どういう感じなの?
「五爻」は色々な説、考え方があります。「袂(べい:えり)」は身分を表すのですが、「君」ようするに「帝乙」より、嫁ぐ「太姒」の夫である「文王」の「袂」が立派だ、と言っている、それはのちには古い「殷」が滅び、新しい「周」が盛り上がることを示しています。
それを「もうすぐ満月だ」要するに、そういう時がもうすぐ来る、と言ってるんだね。
そうです、もう一つは「戦うことなく帝乙が妹の太姒を嫁がせる帝乙の人徳がとても素晴らしい」と取る向きもあります。
どちらにしても、殷は滅び、周の時代が来るのは間違いないわけです。
「五爻」は常に「尊位」であり、「中徳」を得ています。
それは、バランスを取る君主のイメージですが、「陽位」に「陰」で位、不正で力不足ですから、「帝乙」が譲ったことで、強い「二爻」と応じることが出来た、とも言えます。
なるほど、応じてるけど「五爻」が「陰」で「二爻」が「陽」なんだね。
「五爻」は「四爻」と比しています。(隣の爻と陰陽が違う場合、比している、つながっています。)
「四爻」は待つべきを待つイメージだよね。それで「五爻」に来たんだね。「上爻」とは比してないけど。
「上爻」は、目に見える収穫は無い、というような文章ですが、では目に見えない何を得たのかを考えろ、ということですが、「五爻」はそこに比していません。
出典は「易経」でした。