今回は阿頼耶識(あらやしき)です。
大乗仏教の一部の考え方で人の無意識の奥の意識のことです。
えー、なんか、怪しくない?
無意識っていうのだって、どこまでが無意識か判らないじゃん。
まあ、判らない時はとりあえず名前を付けてみると判った気持ちになりますよね。
実際問題、人間の行動の根本が、人間の意識のよるものである、と言う願望的な言葉とも考えられますね。
判っちゃいるけど、やめられない、と言う言葉がありますが、それは判ってるといえるのか、ってことですよね。
えー、判っているけど、ガマンできないんじゃないの。
体の表面の微生物や体内の菌によって行動は決まっていて、その行動に理由を付けるのが脳だ、と言う考え方もありますね。
それが基本で、論理的認識でそれを修正できることを「我慢強い」と言う言い方も出来ますね。
状況の理解が薄いけど、言葉だけ知っている気になっているのが、ガマン弱い人、ってことか。
脳の働きが意識の全て、とは言えないと思います、人は行動をそんなに意識で統括してると思えないんです。
だとしたら、明日朝早いけど夜更かしする、などは説明が付きませんよ。
おお。
阿頼耶識(あらやしき)は、意識の根本なの?
ま、そう言うことのようです。阿頼耶(あらや)は、蔵(くら)と言うような意味で、そこに意識の種子が入っていて、芽吹いてくるようなイメージです。
ま、人間の意識の根本が、人の意識の奥にあるイメージですね。
宗教的にその方が商業的に良い面もあります。
肉体が滅びても阿頼耶識(あらやしき)は存在し、良い行いや悪い行いは阿頼耶識(あらやしき)に蓄積していくと言うことにすれば、じゃあ、徳を高めるには、どうすればいいの?となった時に、イロイロ理由を付ければ利益につながりますからね。
あ、何とかする方法がある、って言うイメージが大切なのか。
まあ、理屈があやふやな方が、努力しないで目的が果たせそうなイメージなので商業的によいわけです。要するに「ある」と思いたい人がたくさんいれば「ある」と言うことですね。