今回は無名之樸(むめいのぼく)です。
まだ何もない、ありのままの姿のことです。
何もない、ってどういうこと?
「老子」は、欲にかられたときに本当にっ素直な自分の気持ちを取り戻せば良い、ということを言っています。
だって、もう欲望で一杯なのに?
これを「無名」の、と言っていますね。これは「ワーグナー」のオペラ「パルシファル」にも出てくるイメージと同じで「聖杯の騎士パルシファル」はアーサー王伝説の登場キャラクターです。、主役の「パルシファル」がまさに「無名の愚者」として登場するのですが、様々な出来事、試練の中で成長していきます。
そして、「パルシファル」とその名を呼ばれたところから意識が覚醒、変化します。これは、無意識的な直感で行動するがまだ目標の無い状態です。
要するに、欲にかられていない自分の素直な気持ちに帰れってことなんだね。
そうです「欲にかられること」はそもそも、「道」を間違えているのです。
なるほど「道、タオ」だね。
そうです、「道、タオ」は勘違いしていない、周囲に害されていない、自分の使命に向かう無意識と言っても良いでしょう。
そして「無名之樸(むめいのぼく)」というのは、あらき、切られたばかりの丸太、木、素材のような意味もあります。象徴では「木」は「成長」のイメージなのです。
なるほど、そういうのも一致するんだね。
象徴は「無意識の言葉」ですから、全世界、いつの時代も通用するのです。
出典は「老子道徳経」世に言う「老子」でした。