十牛図 心を探しに行く
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中国の北宋の臨済宗の僧、廓庵(かくあん)の描いた作品で、人が「悟り」に至る過程を「牛」と「人」で描いたものです。臨済宗だから禅のお話です。
人と牛で?
牛と言う「悟り」を探す人の話とも言えますし、
「自分」と言う牛を探しに行く話とも言えます。
お、禅の臭いがしてきた。
そうです、では見てみましょう。
1「尋牛」(じんぎゅう)
牛を探す所から話は始まります。悟りを探すことは、自分が今に対して不満を持っているからであります、そんなことも知らずに、何かいい方法があるはずだ、スッキリ楽になる方法を求めているのですが、悟りと言う高みを目指す高揚感で、自分から、迷路に迷い込むような状態とも言えますね。
自分を探す、と言う意味では、どうして良いか判らない迷いがあると言えます。楽がしたいから見つからないのか、やりきる自信が無いのか。ただ、この道は間違いではありません、自分自信に近づく道と言えます。
なるほど。
2「見跡」(けんせき)
牛と言う、自分、悟り、そのものではないが、その足跡のようなものを見つけます。自らの行為を振り返り、自分と言うものを見直す、自らの、行為、間違い、後悔と言う足跡を見ることで、考えを深める段階です。
3「見牛」(けんぎゅう)
ついに、牛を見つけます、全体は判りませんが、牛そのものを見つけたのです。
牛が悟りなのなら、手にしてみたい、もし自分なのなら、知ったところでコントロールできるか判りません。ただ、考えに考えて探している牛は、自分が目指すものでもあり、自分に足りないものかもしれません。ただ、牛が何者かは判りません。
逆に今まで捕まえられなかったのは何故だろう、自分から目をそらしていたのかもしれません。逆に言えば、自分を客観的に見ることが出来ている、と言えるかもしれません。
4「得牛」(とくぎゅう)
そして、とうとう牛を捕まえました。悟りを求めるのは、自分を知る、と言う道につながります、その意味で牛は、自分の目標であり、操れない欲でもあります。捕まえてみると思ったように動いてくれるわけではありません。何かをしようとすると自分の弱さ、欲の強さを知ることが出来ます。
それを周囲のせいで上手く行かない、と人のせいにしていては牛は捕まえられないのです。
悟りを目指すと、自分の内面に入っていくことになるのか。
5「牧牛」(ぼくぎゅう)
お、牛と仲良くなった。
日ごろの不満は牛が暴れていたから、それは、自分のことでもあったことに気付き、自分と状況の関係が判ります、しかし、牛の手綱を放すことは出来ません。出来ないことは、自分の心が無理だと思うことだ、と判ってしまうと、自分しだいで人生が変わることに気付けると、ダメになるのも自分しだいと知ってしまうことです。
運と、ごまかしていたことも、自分の考え方が大切だと言うことか。