今回は特別企画「中国文学哲学としての易経三百八十四爻」です。占いではない哲学としての「易経」のお話です。カテゴリーは「易経三百八十四爻」になります。
今回は「離為火(りいか)」四爻です。
離為火の「卦辞」は「利貞 亨 畜牝牛吉」ていによろし とおる ひんぎゅうをやしなえばきち、です。ようするに「メス牛」を養えば吉、牛は自分そのものの気持ち、メスは陰、しっかりやる、言われたとおりにする、周囲の必要なことをする、いめーじですから、たしゃに求められるようなことをしなさい、ということです。
ひとつ前の「坎為水」が内面の充実、人知れない苦労「月」だとしたら、「離為火」は昼に燃える「太陽」です。ただ「火」ですから、しっかり燃えるものに燃え移って燃やす必要があります。
燃えたら無くなっちゃうでしょ?
そうですが、他人に求められる力を求め、努力することで、余分な部分が燃えて無くなり、自分から「離」れて、新しい自分が生まれるのです。
なるほど「離」ってそういうことだから「離」が「火」なんだ。
「不死鳥」「フェニックス」「朱雀」などのイメージです。
四爻は「突如其來如 焚如 死如 棄如」とつじょそれ ふんじょ しじょ らいじょ。
どういう感じなの?
突然、焼かれるように、死んでしまうように、すてられるように。ということです。
なんだかすごく大変なのは判る。
ただ、この焼かれる、はそのまま物理的な意味もありますし、自分の目指した目標に向かったことで「焼かれ生まれ変わる」意味でもあります。新しい自分が生まれるということです。
死ぬ、って「生まれ変わる」「成長する」って意味か。
でもそれが出来なければ、新しい自分が生まれず、ただ苦しみ滅びて捨てられる、生まれるはずだった「新しい自分」だけが死んでしまいます。
努力をし、成長した人は「焼かれて」「生まれ変わって」「古い自分を捨て」られます。
捨てるか、捨てられるか、の分かれ目なんだ。
いわゆる「運の悪い時期」は努力すべき時にしないと、後の、満足が欲しい時期に達成出来ていない自分に耐えられない人の苦しみでもあります。
運は自分の考え方のサイクルでもあります。出来事は後から意識的に足された理由付けでしかありません。
厳しい時なんだな。
「四爻」は「離為火」は「純卦」だから応じていません。
初心である「初爻」とつながっていないから、「初心」から変わらないといけないのか。
そして「五爻」には比していますが「三爻」には比していません、要するに上に向かうしかないのです。(隣の爻と陰陽が違う場合、比している、つながっています。)
何で?
人は自分の能力は使いたいので、目標を目指して頑張った人にはさらに上を目指すしかないのです。
能力を使えないことは大きな苦痛なのです。
そして「四爻」は「陰位」に「陽」ですから、強すぎる力を制御できません、大きな目標に向かう、自分が本当にやりたいことに向かうしかないのです。
なるほど、この卦は読むのが難しいな。
言葉がきついから単に良くない、と考えてしまう人も少なくない卦です。
ただ、易は隅々までよく考えないと占いもそうですが哲学的な意味もつかめないのです。
出典は「易経」でした。