今回は特別企画「中国文学哲学としての易経三百八十四爻」です。占いではない哲学としての「易経」のお話です。カテゴリーは「易経三百八十四爻」になります。
今回は「離為火(りいか)」三爻です。
離為火の「卦辞」は「利貞 亨 畜牝牛吉」ていによろし とおる ひんぎゅうをやしなえばきち、です。ようするに「メス牛」を養えば吉、牛は自分そのものの気持ち、メスは陰、しっかりやる、言われたとおりにする、周囲の必要なことをする、いめーじですから、たしゃに求められるようなことをしなさい、ということです。
ひとつ前の「坎為水」が内面の充実、人知れない苦労「月」だとしたら、「離為火」は昼に燃える「太陽」です。ただ「火」ですから、しっかり燃えるものに燃え移って燃やす必要があります。
燃えたら無くなっちゃうでしょ?
そうですが、他人に求められる力を求め、努力することで、余分な部分が燃えて無くなり、自分から「離」れて、新しい自分が生まれるのです。
なるほど「離」ってそういうことだから「離」が「火」なんだ。
「不死鳥」「フェニックス」「朱雀」などのイメージです。
三爻は「日昃之離 不鼓缶而歌 則大耋之嗟 凶」ひかたむくのり ほとぎをうちてうたわず すなわちだいてつのなげきあり きょう。
どういう感じなの?
太陽が傾いていく、「缶(罐)ほとぎ:お酒や水を入れる入れ物」を叩き歌おう、そうでなければ「耋(てつ:老人)」年を取るのを嘆いていては「凶」ということですが、それがそのままの意味で、象徴的に理解していけばまた違う意味があります。
ひとつの目標が叶い、力を付けた、そうなったら現状に甘んじず、恐れず、酔って、本当にやりたいことをやるべきだ、それは「老人(無意識)」にしたがうことで「凶(うまれかわることだ)」ということです。
一つ目の「太陽」が終わり「本当の太陽」に向かうことをイメージしています。
成長してこそ目指せる目標に向かわなければ、年を取るのを嘆くだけの人生だ、ということです。
なるほど。
「三爻」は「純卦」ですから当然応じていないですし、上の「四爻」の比していません。今までの頑張りである「二爻」とは比しています。(隣の爻と陰陽が違う場合、比している、つながっています。)
しかし「陽位」に「陽」で位、正しいですから、強い気持ちがあります。
要するに、それなりの成功を得たけど、その得た実力を生かすには勇気がいるから、恐れず生まれ変われ、ってことか。
まあ、「凶」ですから、めっちゃ大変ですけどね。
えー。
出典は「易経」でした。