
今回は特別企画「中国文学哲学としての易経三百八十四爻」です。占いではない哲学としての「易経」のお話です。カテゴリーは「易経三百八十四爻」になります。
今回は「雷山小過(らいざんしょうか)」四爻です。

卦辞は「亨 利貞 可小事 不可大事 飛鳥遺之音 不宜上 宜下 大吉」とおる ただしきによろし しょうじかなり たいじふかなり ひちょうこれがいんをのこす のぼるによろしからず さがるによろし だいきち。
要するに「内面を高める」「技術を高める」「知識を高める」このようなことは良いが「結果」を求めることは宜しくない、と言っています。
どうして?
人は結果を求めて結果を得てしまうとそこで止まってしまいます、そのようなことではなく「自分の道を追求する」イメージを「雷山小過」要するに「下卦」の「艮(ごん:やま)」の上に「上卦」の「震(雷、動く)」と言っています。
要するに「山にこもって(自分の内面で)動け」と言うことで、人前で格好つけるより自分を突き詰め高めよ、ということです。
「小過」ってそういうことなんだ。ちっちゃいことをしろ、って変だなぁ、って思ってた。
他人から見た大きさなんて気にするな、「我が道を究めよ」ってことなんです、そのこだわりは「行き過ぎて良い」ということです。
修行のイメージなのか。なるほどね。
陰の多さ、そして最初と最後が二本の陰で挟まれていること、これは「努力せよ」結果ではなく「努力せよ」、そして中ほどの「陽」は、その努力の中に「目的」と「願望」を求めよ、と言うことなのです。
「四爻」は「无咎 弗過遇之 往厲必戒 勿用永貞」とがなし すぎずしてこれにあう ゆけばあやうしかならずいましめよ えいていにもちうるなかれ。
どういう感じなの?
まず「四爻」という「爻」自体が「新しい段階」を意味します。
「下卦」から「上卦」に移り変わるからだね。
「咎无」は「勿用永貞」にかかっています、いつまでも正しく、用いることが無い、ことで咎无、なので、「雷山小過」の「貞」は「「内面を高める」「技術を高める」「知識を高める」このようなことは良いが「結果」を求めることは宜しくない」のですから、しっかり修行すれば咎无し、なのです。
要するに新しい段階に入ったからこそしっかり謙虚に修行せよ、ってことだね。
「四爻」は「陰位」に「陽」で位、不正です、力が強く焦って自己主張や、早く認められたいなどと思うかもしれませんが、しっかり自重せよ。ということです。

そして「初爻」と応じていますが、「初爻」は「飛鳥以凶」ひちょうもってきょう。ですから、飛んじゃいけません、まだ力が無いんだ、と言うことです。

いやいや、もうあるでしょ。
無いんです、みんなの中で一番だとしてもまだまだ志には届かない非力な存在だと、戒めるべきなのです。
そのアピール、誰によ?
自分です、自分の無意識です。他人を見るようではまだまだなのです。
そして「五爻」に比しています。「五爻」は「密雲不雨 自我西郊 公弋取彼在穴」みつうんあめふらず わがせいこうよりす こう いぐるみして かのあなにあるをとる。ですから、恵みの雨が降りそうで降らない、しかし、穴の中でいぐるみで獲物を得る。(隣の爻と陰陽が違う場合、比している、つながっています。)
「弋(いぐるみ)」は紐の付いた矢で、獲物と自分がつながった、とも言えます。しかし、それは穴の中です。
本当に自分が得たいものを得た、みたいな感じかな。
「五爻」は君主のイメージですから、まさにそのために登っていくのが「雷山小過」ですから、「四爻」はその手前まで来たイメージでもあります。
「三爻」は比していません、防ぐとき、守る時ではないと言えますね。しかし、しっかり精進することです。
周りから見たら一緒だって。
そんなものに意味は無いのです。
出典は「易経」でした。





