今回は特別企画「中国文学哲学としての易経三百八十四爻」です。占いではない哲学としての「易経」のお話です。カテゴリーは「易経三百八十四爻」になります。
今回は「雷火豊(らいかほう)」上爻です。
卦辞は「亨 王假之 勿憂 宜日中」とおる おうこれにいたる うれうるなかれ にっちゅうによろし。です。とおる、王者のみがこういう力をもつ 心配することは無い、いつも太陽のように公明正大であれ、というような意味です。
「雷火豊」は「雷澤歸妹」の次の卦です、苦労が実り、ようやく「王」になったということです。ですから大いなる力をもって決断していくことを言っているのです。
このころはまだ皇帝じゃなくて「王」なんだね。
でも、「二爻」と「五爻」は応じてないね。
それが力を持つということです、「上卦」の「雷(震)」と「下卦」の「離(火、光、太陽)」は大きな力を発揮し物事を裁き、決定します、しかしそのような大きな力は、いつか普通の人たちから離れやすいものです。
ですから、常に日中のごとく明るく、公明正大でいれば宜しい、と言っているのです。
なるほど、偉い人になったら最初の志を忘れてしまいやすいことを示してるのか。
「上爻」の爻辞は「豐其屋 蔀其家 闚其戶 闃其无人 三歲不覿 凶」そのおくをおおいにし そのいえにしとみす そのとをうかがうに げきとしてそれひとなし さんさいまでみず きょう。です。
どういう感じなの?凶だし、嫌な感じだけど。
言葉のままにとれば、大きな家があるが、蔀(しとみ、ひよけ)で囲んで外とつながらない、そして三年人を見ることは無い、非常に大変なことである。
やっぱりそのままか、ダメだね。
しかし、それだけではありません「上爻」は無意識的です、外界と遮断され三年人と会わない、蔀で囲うことを「自分に向かい合う」と考えればそれを三年、ちなみに中国の天文学では「蔀」は76年周期であり、「章」は19年周期で「四章」で「蔀」となります。空の星々は無意識の心の世界とも言えます。
そうか、長い間人と会わない、何も起こらない、自分に向かい合う、は「凶」生まれ変わる、でもあるのか。
そして普通の人が行わないことですし、権力を持ち、あるレベルに達したら行うべきこととも言えます、権力は握ってしまったら、手放すのは難しいことですからね。
権力、財力=失うのが不幸、とも言えないのか、確かに。
そして財力より権力は手放すのが難しいです、昔から「虎の背には乗るより降りる方が難しい」と言います、危険ですからね。
なるほど。
「上爻」は「陰位」に「陰」で位正しいです。それは適切な謙虚さを求めます。
そういうことか、易は難しいな。
そして、「三爻」に応じています、「三爻」は上手く「上爻」と手を結べなかったのですが、「上爻」には様々な理由があるのです。
うーむ。
繋がっているからこそ、繋がれなかったのです。
そして「五爻」に比していません。それは、権力に対し疑い、限界を感じたからだ、というのも一つの考え方ですし、自分の身の安全のために閉じこもったとも言えます。
全然違うじゃん。
人間はそう思うでしょう、しかし、「自ら」であろうと「はく奪」されようと権力から離れることは同じです、ここが本質で、嫌な思いをしたくなければ自分から手放すのも一つの選択肢だ、ということです。
しがみつくべき時じゃない、ってことか。
出典は「易経」でした。