今回は不見而名(ふけんじみょう)です。
見ずしてしっかり察知する、理解することです。
いや、いくら何でも無理でしょ。
見ずにして名(あき)らかにする、それは、物事の仕組みをしっかり理解していれば、現場で見ている人たちよりも深く理解できる「道(タオ)」を理解した聖人には可能なのです。
例えば、夫婦げんかの話を聞いたら、単に仲が悪いと思いますね。
そりゃそうでしょ、仲が悪いからケンカするんだから。
しかし、実際は、一緒に住んでいることが息苦しいだけで、少し距離を取ったら非常に快適になってケンカしなくなる、と言うことがあります。
何で?どうして?
それは人は上手く行かないと誰かのせいにする癖があるからです。
そうか、例えば占い師はそういうことが、お互いのセリフやお客さんの申告から想像つくんだ、要するに本人たちより良く判るんだ。
まあ、これは小さな例えですが、賢人、聖人とは広くにわたってそういうことだということです。
出典は「老子道徳経」世に言う「老子」でした。